2013年5月28日

洗練された「洗練されない時代」のサウンド

top_cd_doremi

どれみ座『どれみ座』

◎今年早々に発売され、すぐに紹介しようと思っていたにもかかわらず遅くなってしまった(個人的な事情でですが)鳥取県出身の三人組バンドの5曲入りミニ・アルバム。
 ジャズっぽい立ち上がりが、しかしレゲエになり、エッジの効いたリフから聞こえてくる歌詞を聴いていると中身はなんと“ちくわが鍋を前にした人間に説教している”(!)という冒頭の「チクワノクイサシ」。とはいえ、このバンドのスタンスが一番わかりやすい曲には間違いなくて、そんな出会いにオロオロしてると、これも性急なエッジの効いたギターリフとドラムとの絡みがスリリングで途中のエキゾなギターソロのゆったり加減にうっとりする「Dance」、だんだん盛り上がるなだらかな7分越えの大曲にもかかわらず最小限の音で(そう。ザ・バンドのガース・ハドソンのようなキーボードとか)つないでいく「人魚すくい」、特徴のあるギターフレーズと呼応する太鼓とともに、“エライこっちゃエライこっちゃ、お金が足りない”と歌いながら一気にカオスへ突入(ここがゾクゾクする!)していく、迫力と変化と混沌に富んだ「上井囃子」、SSWが最初から叫んでーーどうってことないはずなのに、サビのこのフレーズが頭について離れない(笑)ーーぐっとつかまれたまま最後までこの叫びに酔いしれ“させられる”ラストの「影とび」。濃くて熱くて、しかし風通しがよくてたまらない1枚である。
 歌詞が、個性的であるゆえに意味が重そうでいてしかし絶対的なところで、こう、抜けがあったり、かなりいい意味で“神経質に”言葉にかなりこだわってる、と読んだ。手垢にまみれず、安直や“不思議”に逃げず、言葉選びを模索しつつその汗や痕跡を感じさせないところがさらにいい。
 で、その、歌詞のアプローチとバラエティに富んだユニークなサウンドを結びつけているのが、いわゆる彼らにしかないグルーヴだと僕は思っている。

 実は、このアルバムを最初に聴いた時の第一印象は“僕が中高生の頃(70年代頭)に音楽に目覚めて何かやろうと思ったとしたら、多分、こうやりたいんじゃないかなあ、と思えるようなサウンド”だった。誤解を承知であえて書いているので、もう少し説明してみたい。ここでは実は“中高生の頃(70年代頭)”がキーで、つまり……今の音楽で言う“ダンス”“踊る”っていうのは、体を“ダンス”っぽく“踊ってるように”動かす、ってことだ。それについては、僕(も、同世代の方もだと思うが)は未だに慣れないことだらけなのだが、単純に当時は、踊る見本もなかったし、ほとんどの“内気なジャパニーズ”はせいぜい手拍子くらいしか“ノッてる”ことを表す方法がなかった。
 つまり、よく考えれば、僕らは“単に踊れる”音楽よりも、どこか屈折したりもやもやしたり猥雑化してその中から爆発しながら生まれてくる音楽を、国境を越えて好きになってしまったのだった。そう、ツェッペリンだって、現在の意味では踊れない、ディープ・パープルでも踊れない、ビートルズもストーンズもそうだ(例は何でもいい。踊るためのバンドだとは多分誰も思っていなかったから)。
 じゃあ、僕らはそれらの何に反応し、動いていたのか。簡単である。体、肉体ではなくて、“血沸き、肉躍る”ビート、グルーヴ、まずは体内に訴えかける“太古から人間の遺伝子に組み込まれた”(?)原初の鼓動のようなものに、である。
 どれみ座を聴いていると、どうも、この(洋の内外を問わず)60~70年代のバンドが持っていた祝祭感とか土着性とか、野卑っぽさとか、野蛮気味とかの“血沸き、肉躍る”匂いがぷんぷんするのだ。ただ暖まるためだけに起こしたたき火を囲んで、“えらいこっちゃえらいこっちゃ”と言いながら“ええじゃないか”踊りをやってるような三人組、そのイメージがどうしても浮かぶ。さっき“僕が……やろうとしたら”というのはそういう意味であり、つまり一緒にその輪に加わりたいと思ったということだ。
 しかし決定的に僕のイメージと一線を画すのは、土着や野卑などの言葉は当時だから“まんま非洗練”である。しかしどれみ座はさすがに今のバンドであって、進んでる。決して僕ら(の頃)を繰り返してはいない、そういう要素を内包したまんましっかり(それも、あっさり、見事な手際で。もちろんいい意味で)洗練されている(!)ということだ。その証拠はこの5曲に散りばめられている……。

 と、雑誌じゃないから文字制限がないのをいいことに勝手に長く盛り上がっているが、こ・れ・が、どれみ座の魅力です。

 興味を持った方は、まずは
 http://www.facebook.com/theDoremiza
 へ。
 本当におすすめです。
 [米田郷之]